吹雪型駆逐艦(特型駆逐艦)の12番艦。
数々の激戦に参戦し、船団護衛を続けた護衛のプロ。
それが―――
駆逐艦「敷波」
数多くの仲間を目の前で失いつつ、傷つきながらも船団を護衛し続けた一等駆逐艦の結末を語ろう。
ええ? 沈むって?! マ、マジかよぉ… 本気で悔しいよ…なんだよぉ… by敷波
駆逐艦「敷波」
敷波は、旧日本海軍の吹雪型駆逐艦(特型駆逐艦)の12番艦(特Ⅱ型2番艦)。
舞鶴工作部で建造され、一等駆逐艦に類別。
「磯波」「浦波」「綾波」と第19駆逐隊を編成した。
日中戦争時には、上海・杭州湾上陸作戦に参加。
太平洋戦争では、南方進攻、ミッドウェー海戦、ソロモン諸島・ニューギニアなどの多くの激戦に参加。
「バタビア沖海戦」において、共同で米重巡「ヒューストン」を撃沈させる武勲を立てた。
「第三次ソロモン海戦」では川内・浦波・綾波とともに米主力艦隊と戦った。
この際、自身に武勲はなかったが綾波の大活躍と、その最期を見届けることに―――。
その最後―――
敷波は船団護衛を続けていたが、1943年3月2日から3月3日の「ビスマルク海海戦」へ突入。
ここで敷波の所属する艦隊は、新たな攻撃手段として採用された反跳爆弾の標的となってしまう。
その攻撃により多くの輸送船を失うことに―――。
更に、目の前で駆逐艦「白雪」を沈められてしまった。
この時、白雪に乗艦していた木村昌福少将を含む乗員たちを救助。
以後、司令代行を務めた。
戦況は最悪と言っていい状況で、多くの駆逐艦が反跳爆弾の餌食となっていく。
敷波から発令した指示は・・・、「全艦撤退」。
これ以上の損害を回避する為にも、残存艦隊の中でも撤退可能な艦艇を退避させる必要があると判断したのだった。
しかし、朝潮がこの命令を無視。
野島、荒潮の救出に転進し、帰っては来なかった。
ここでも多くの仲間を失いつつ、奇跡的に生還をはたした敷波は、この後も船団護衛を続けていく。
1944年8月1日、シンガポール沖で座礁事故を起こしてしまう。
被害をうけたものの離礁に成功し、応急修理をした後、本格的な修理を受けるため、ヒ72船団の護衛に協力しつつ内地へ向かうこととなる。
そして、運命の9月12日―――
1時55分、船団は米潜水艦「グロウラー」を含む潜水艦部隊に襲撃される。
雷撃が船団を襲い、護衛部隊旗艦である海防艦「平戸」に魚雷1本が命中し、激しい閃光と水柱に包まれる。
それが収まると海上には平戸の姿は無くなっていた。
司令官、梶岡定道少将の戦死が確定した。
混乱する船団に、米潜水艦部隊の雷撃が襲い掛かる。
次々に被害が増えていく。
そんな中、敷波は万全の状態ではないものの対潜掃討を実行。
激戦は夜が明けるまで続いた。
6時55分、遂にグロウラーの雷撃が敷波の船体に命中。
立て続けに2本の魚雷を受けた敷波は、たった4分の間に沈んでいってしまったという。
北緯18度16分 東経114度40分の海南島東方洋上―――それが敷波の最期の地となった。
大海に還った魂に敬礼―――