水雷戦隊の旗艦に適した優秀な艦艇。
20年間、数々の戦場を駆け抜けた。
それが―――
軽巡洋艦「名取」
幾度も損傷を受けつつも修復して戦い続けた歴戦の軽重要艦の結末を語ろう。
私もたくさん沈めちゃったから…これは…仕方ないこと……ね… by名取
軽巡洋艦「名取」
名取は、旧日本海軍の長良型軽巡洋艦の3番艦。
完成当初、高速軽巡洋艦として、水雷戦隊の旗艦に適した優秀な艦艇だった。
太平洋戦争時、1943年1月。
アンボンへ航行中だった船団が爆撃を受け、水雷艇友鶴が損傷した為、名取は船団の元へ向かい警戒に当たっていた。
同月9日に米潜水艦トートグの襲撃があり、その時名取は魚雷1本が後部に命中。
被害は大きく後部切断により、戦死7名、負傷12名を出す。
アンボンで応急処置を受けたが、16日にB-24の空襲を受ける。この際には被害はなかったが、21日に再度B-24の攻撃があった。
21日には至近弾により再び損傷してしまう。
マカッサルへ後退を余儀なくされる。
その航海中、またも潜水艦トートグに補足されてしまった。
なんとか執拗な攻撃を回避しマカッサルへ、その後、無事に舞鶴に帰投したのだった。
この時点で、既に20年以上戦い続けていた名取。
既に旧式艦ではあったものの、歴戦の海兵たちの操艦によって幾度も難を逃れていた。
多くの戦場を駆け巡り、敵艦を多く沈めてきた。
その最後―――
アンボンで受けた損傷の修復には1944年の4月までかかった。
修理のみではなく、改造も実施され7番主砲を撤去し12.7mm連装高角砲を装備、5番主砲も撤去し複数の機銃が増備された。
内海での訓練後、5月には第三艦隊第五水雷戦隊の旗艦として南西方面各地攻略作戦に参加。
その後の任務は、米軍のパラオ作戦に対し、第三号輸送艦と共にパラオへ物資を緊急輸送することだった。
マニラからパラオ諸島までのフィリピン群島を何度も往復、その途中で幾度となく敵の魚雷攻撃に晒される。
輸送中の船内は、砲弾などの弾薬類や食料、医薬品まで所狭しと満載されていた。
8月14日、マニラを出港したものの米艦隊を確認したため、一時セブ島まで引き返すことに。
様子を見つつ、再度パラオを出港したのは同月17日の午前10時。
これまでの経験上、米潜水艦が近くに潜伏している。
歴戦の船員たちは、みなその気配を感じ船内は張りつめたような空気になっていた。
輸送艦の速度の影響で20ノット以下での航行ということもあり、警戒しつつ蛇行して航行を続ける。
コースも普段と違い遠回りの北側に進路を取っていた。
そして、運命の8月18日―――
深夜0時を回る頃、名取は針路を南に、パラオへ向けてまっすぐ航行を開始。
同じ頃、米潜水艦ハードヘッドは、フィリピン東方の海上を哨戒していた。
そのレーダーにははっきりと名取の艦影を捕らえていた。
―――1時間。
ハードヘッドの追跡は続き、遂に名取を射程に補足。
艦首発射管より魚雷5本を発射。
射線を確認しつつ、1分後、更に電池魚雷4本を一斉発射した。
暗く静かな夜空に高く青信号が打ち上げられた。
第三号艦からの緊急信号。
「ワレ右舷ニ雷跡見ユ」
急速転舵。
―――午前2時前後の事。
警報と共に艦内に号令が響き渡る。
「艦内総員配置につけ!」
それと共に名取船体全てを襲う強烈な衝撃!
海中へ投げ出される者、甲板へ叩きつけられる者、兵員の絶叫が艦内の混乱を物語っていた。
火災も発生し、被害は甚大だと誰にもわかるものだった。
艦を護ろうと全員が必死に奮闘した。
しかし、午前6時30分頃―――ついに力尽きたように、名取は暗い海の底へと沈んでいった。
生き残った者は、その後、激しい風雨やサメと闘いつつ生き延び、28日間漂流したという。
大海に還った魂に敬礼―――