一等巡洋艦でありながら河川の名前を持つ艦艇。
世界に先駆けて20cm砲を搭載した巡洋艦。
それが―――
重巡洋艦「加古」
開戦当初から激戦海域で戦い、第六戦隊姉妹艦とともに海を駆けた古鷹型重巡2番艦の結末を語ろう。
昔から調子こいては、古鷹に怒られていたっけなぁ… by加古
重巡洋艦「加古」
加古は、旧日本海軍の古鷹型重巡洋艦(古鷹型一等巡洋艦)の2番艦。
世界に先駆けて20cm砲を採用した巡洋艦でもある。
艦名が一等巡洋艦でありながら河川の名前がつけられている。(本来、帝国海軍の慣例では一等巡洋艦は山、二等巡洋艦は川の名前とされる)
これは計画当初は、川内型軽巡洋艦(二等巡洋艦)して建造される予定だったためだ。
しかし、ワシントン軍縮会議の結果、1922年3月17日に建造中止の通達を受けるた後、一等巡洋艦に変更されたが艦名のみ流用されたのだ。
開戦当初から様々な作戦に参加した加古は、グアム島攻略からMO攻略、ミッドウェー海戦、第一次ソロモン海戦と有名な作戦に名を残す。
その最後―――
1942年8月8日~9日、加古が編成されている第六戦隊(加古、青葉、衣笠、古鷹)は、「第一次ソロモン海戦」に参戦していた。
戦闘は夜戦もありで続き、正に激戦となった。
米重巡洋艦アストリア、ヴィンセンスと交戦してダメージを与え、クインシー、豪重巡キャンベラの撃沈に貢献。
この時、加古は主砲192発、高角砲124発、25mm機銃149発、魚雷10本を発射したという記録が残っている。
偵察に発進していた水上偵察機も未帰還だった。
そして運命の8月10日―――
第六戦隊は姉妹艦4隻のみでニューギニア島・カビエンに向かって航行中。
継続した戦闘航海3日目、ここまでの戦闘で加古は損害なしという状態ではあったものの疲労はピーク。
午前7時、海上は平穏、視界40kmと良好。
第1小隊、青葉、加古と第2小隊、衣笠、古鷹が並陣・各艦距離800m、速力16ノットで移動していた。
青葉の水上偵察機1機が前路哨戒を実施、周囲に艦影は確認されなかった。
この時、対潜警戒運動を実施していなかった事が裏目に出るコトに・・・。
既に米潜水艦S-44が第六戦隊を補足し、潜んでいたのだ。
それも信じられない程の距離―――
加古からの距離700ヤード、つまり650m。戦隊の艦艇より近い距離まで接近されていたのだ。
S-44は、4本の魚雷を加古に向けて発射。
即時回避運動を実施しようとするが、外二軸運転中だったために舵の効きが悪い。
7時9分~10分にかけて加古は被雷。
1発目が加古の一番砲塔右舷へ命中し、大きく船体が傾く。
そこへ残りの魚雷が迫る。
回避は不可能。
姉妹艦たちからの支援なども間に合うハズもない。
2発目、3発目が命中。
それぞれ弾薬庫、缶室付近を破壊した。
―――致命的だった。
7時15分、ほんの僅かな時間で加古の船体は右舷へ転覆、沈没していった。
沈没地点は、南緯02度28分 東経152度11分。
准士官以上6名・下士官兵61名・傭兵1名の計68名が犠牲となった。
残された姉妹艦たちは、爆雷投射後に装載艇を放出、やむをえずカビエンへ撤退した。
生還できた第六戦隊姉妹艦の空気は、沈痛なものになったという。
生還した加古の乗員は、翌日に駆逐艦卯月と舟艇3隻に便乗してカビエンへ向かい、六戦隊姉妹艦に収容された。
この卯月のエピソードは、艦これの卯月改の胸飾りに反映されていると言われる。
これは、加古の髪飾りであり、加古が改二になると失うモノ―――。
加古が卯月に残した形見というコトだろう。
大海に還った魂に敬礼―――