初春型駆逐艦の中で、最後まで戦い続けた艦。
大和の水上特攻からの生き残りの1隻。
それが―――
駆逐艦「初霜」
無数の空母機と戦いながらも生き残り続けた驚異の初春型駆逐艦最期の生き残りの結末を語ろう。
提督……みんな……ご無事ですか……? なら……いいの。 by初霜
駆逐艦「初霜」
初霜は、旧日本海軍の一等駆逐艦初春型の4番艦。
この名の日本海軍の艦艇としては、神風型駆逐艦「初霜」に続き2代目となる。
南方作戦・蘭印作戦・北方戦線で行動、坊ノ岬沖海戦からも生還した。
1945年4月6日、豊後水道を南下する戦艦「大和」を護衛する艦艇の中に1隻の初春型駆逐艦の姿があった。
それは、第二十一駆逐隊に所属する「初霜」。
この時点で初春型最期の生き残りとなっていた。
この作戦―――沖縄海上特攻作戦に初霜は参加。
16時半、二水戦各艦は大和を目標艦として魚雷襲撃訓練を行い指揮を高めた。
燃料不足で移動もままならない状態だった帝国海軍で最後となる水雷訓練となる。
翌4月7日、南下する部隊は大和を中心に輪形陣を組んで進んでいた。
7時前、二十一駆司令駆逐艦「朝霜」が機関故障し遅れはじめ、やがて完全に見えない位置まで放されていく。
12時40分、米空母の艦載機が来襲。
ここに決死の防衛線が始まった。第一次空襲は、第一波125機と12時59分の第二波94機、計219機による大空襲。
まさに爆弾と魚雷の豪雨だった。
多くの護衛艦艇を失う中、初霜は戦い続け、13時45分の第二次空襲が開始される時には、「大和」を護るのは「初霜」「冬月」「雪風」の3隻のみになっていた。
対空砲火が少なくなった為、大和に雷撃が集中し炎上。
14時23分、遂に大和は横転沈没してしまう。
大和の爆沈により、米軍の空爆は終息した。
こうして、満身創痍ながらも初霜はここでも生き残る。
その最後―――
6月、雪風と共に宮津湾に投錨。
そこにあった砲術学校での訓練に従事した。
これには、特攻の訓練目標という役目もあった。
既に本土空襲が日常化し、敗戦の二文字が見え始めていた。
B-29による機雷投下で、港湾部のほとんどが封鎖されていき、宮津湾も例外なく機雷が敷設される。
そして、運命の7月30日―――
宮津湾は、米軍と英軍の本土空襲を受ける。
隠れていた初霜と雪風は抜錨して防空戦に出る。
しかし、無数の機銃掃射により初霜は、艦長以下多数の死傷者をだしてしまう。
十七駆司令は、万一に備えて容易に擱座出来ることを狙い、陸岸への接近を指示。
初霜はそれに従って移動を開始するが、この時はこれが裏目に出てしまった。
防空戦を行いつつ、満身創痍ながら爆弾・魚雷の直撃を避けていた初霜だが、陸岸付近へ接近した時―――
突然の艦尾での大爆発。
続いて爆音がもう一度鳴り響く。
恐らく一つ目は触雷、その後は爆雷、誘爆か判別できないが、この二度の爆発により初霜は艦尾より浸水が進み船体が沈み始める。
それでも戦い続けながら―――
海岸に擱座・着底。
―――激戦を潜り抜けた初春型最期の生き残りは、姉妹艦の元へ旅立っていった。
船体は擱座したまま、8月15日―――敗戦の日を迎える事となる。
終戦後、初霜の関係者の一人が、舞鶴の解体業者を訪ねた。
そこで思いがけない物を発見し、それを譲り受けます。
それは―――
全て解体され熔解されたはずの「初霜」の主錨。
現在でも、この形見は東京都内某所で公開されている。
大海に還った魂に敬礼―――