睦月型唯一のミッドウェー海戦参加艦。
激戦地で輸送任務に従事した駆逐艦の1隻。
それが―――
駆逐艦「三日月」
ラバウルにソロモンと激戦区域で戦い続け、不運に不運が重なった睦月型駆逐艦の結末を語ろう。
司令官…もっと一緒に戦いたかった…。 by三日月
駆逐艦「三日月」
三日月は、旧日本海軍の一等駆逐艦睦月型(卯月型)の10番艦。
艦名の「三日月」は、初代神風型駆逐艦「三日月」に続き2代目となる。
1941年末以降は、軽空母の「鳳翔」や「瑞鳳」の護衛任務で内海で待機していた。
1942年6月上旬のミッドウェー海戦に第二艦隊司令長官近藤信竹中将(重巡洋艦「愛宕」)指揮下に入り、攻略部隊本隊として参加。
ちなみに、睦月型唯一のミッドウェー海戦参加艦である。
7月以降は内地と台湾間の船団護衛に従事。
この頃までは、内地での運用が多かったようだ。
1942年8月~9月にかけて、睦月型姉妹艦の「睦月」と「弥生」の2隻を喪失したあたりから、激戦地における運用が多くなる。
ラバウル方面に進出し、ソロモン諸島における強行輸送任務に従事。
レンドバ島沖合への進出。コロンバンガラ島へ進出など、数々の戦地で輸送任務をこなしていった。
その最後―――
1943年7月12日、旗艦「神通」率いる増援部隊は、コロンバンガラ島への輸送任務に従事していた。
三日月はその警戒隊に参戦してラバウルを出撃。輸送隊もまたブイン基地を出撃。
合同でコロンバンガラ島へ向かう。
同23時、米軍艦隊と遭遇、コロンバンガラ島沖海戦が勃発。
この戦いで、日本側は旗艦「神通」が沈没し第二水雷戦隊司令部が全滅してしまう。
7月25日、トラック泊地から駆逐艦「時雨」「有明」がラバウルに停泊中だった「三日月」の元へ到着。
この後、東部「ニューギニア」方面作戦輸送に参加する予定だった。
「時雨」はレカタ~ブイン輸送任務に従事する為に別行動となる。
そして運命の7月27日―――
午前10時にラバウルを出撃。
ニューブリテン島・ツルブへの輸送任務についた。
途中、ココボで陸軍兵及び軍需物資を移載後、再び目的地へ向かう。
23時、グロスター岬岬49度5浬のリーフ(サンゴ礁)に速力26ノットといいう速度で座礁してしまう。
夜というコトもあり、両艦ともサンゴ礁の存在に全く気付くコトができなかった。
また、不幸にも甚大な被害を追ってしまった。
特に三日月は浸水し、左右のスクリューも屈曲状態。
航行不能寸前という状態だった。
6ノットという低速ながら、有明は離礁するも、三日月は脱出するコトができないでいた。
有明は三日月の物資の一部を引き受けて任務に戻るコトに。
三日月は燃料や物資を減らし、強引に離礁を敢行。戦地で焦っていたのだろうか、無理をさせ過ぎた結果・・・
―――右スクリュー脱落。
この時点で、自力航行不能となった。
さらに不運は続く。
B-25の空襲―――この攻撃で戻ってきていた有明が轟沈、三日月も1発被弾してしまう。
これにより、完全に航行不能と判断され船体の放棄が決定された。
先に旅立った姉妹艦たちの元へ旅立っていった。
大海に還った魂に敬礼―――