白露型駆逐艦の6番艦。
『五月雨にスコール続く輸送かな』『スコールの後に五月雨忘れけり』の句が残る。
それが―――
駆逐艦「五月雨」
不発弾で助かったり、迷子になったりと白露型のドジっ娘の結末を語ろう。
ごめんなさい…… 私…ここまでみたいです…… by五月雨
駆逐艦「五月雨」
五月雨は、旧日本海軍の白露型駆逐艦の6番艦。
太平洋戦争開戦時、白露型の姉妹艦である村雨、夕立、春雨と共に第2駆逐隊を編成していた。
那珂を旗艦とする四水戦に所属し、様々な作戦に参戦した。
1941年12月より比島ビガン攻略作戦の他、リンガエン湾上陸作戦、タラカン上陸作戦、バリクパパン沖海戦、スラバヤ沖海戦と参加。
その最後―――
1944年3月~5月、五月雨は内地からサイパン、トラックへの船団護衛に従事。
その中、パラオ諸島ソンソル島への輸送作戦中のこと―――
4月27日午前10時、同行中の第三水雷戦隊旗艦「夕張」が米潜水艦ブルーギルの雷撃受け航行不能となる。
五月雨は夕月と共に夕張の曳航を試みるが上手くいかず、翌28日10時15分、夕張は沈没。
夕月が三水戦旗艦を引き継ぐと、五月雨は夕月と分かれてダバオへ向かうことに。
5月下旬、ビアク島への輸送作戦渾作戦に加わるが、戦艦扶桑、重巡青葉、羽黒、妙高等が参加した第一次渾作戦はアメリカ軍機動部隊出現の誤報により作戦が中止となった。
6月8日、駆逐艦6隻で第二次渾作戦が発動された。五月雨は警戒部隊として参戦する。
だが司令艦であった春雨がB-25型爆撃機の空襲を受けて沈没。
五月雨も魚雷発射管附近に被弾してしまう。
致命的な一撃だった―――はずだが、
これは運よく不発弾だった。その為、轟沈を免れた。
その状態のまま、輸送任務は継続。
同日深夜、輸送部隊は米巡洋艦部隊に迎撃され、一方的にレーダー射撃を受けるも損傷を受けることなく避退に成功。
6月11日、五月雨は単艦で行動し、アンボンで春雨の生存者を下ろした。
6月19日~20日、五月雨はマリアナ沖海戦に参加した後、榛名、時雨と共に内地に戻った。
7月8日、呉を出港すると戦艦大和、武蔵、長門、金剛、重巡熊野等を護衛する戦隊に加わりリンガ泊地へ向かう。
7月14日午前3時頃、武蔵の直衛だった五月雨は、南西風15mという強風と波濤の中、艦隊から落伍して行方不明となってしまう。
この辺りのエピソードがドジッ子扱いされる元となっているのだろうか。
重巡利根の捜索で発見されて無事戦隊に合流できた。
これを受け、大和に乗艦していた第一戦隊司令官宇垣纏中将が以下の句を残している。
『五月雨にスコール続く輸送かな』『スコールの後に五月雨忘れけり』
7月16日、第一戦隊はリンガ泊地に到着。
8月7日以降、マニラ~パラオ輸送任務に従事する。
8月18日午前1時15分、鬼怒、時雨と共に航海中だった五月雨は、パラオ近海のガルワングル環礁で座礁してしまう。
火災も発生して深刻な損傷を受けてしまう。
3時40分、鬼怒、時雨は一旦五月雨を残してパラオへ。
18時50分、鬼怒、時雨はに再び五月雨の座礁現場に戻り潜水用具を移積すると、21時をもって現場を離れる。
その後も五月雨の離礁作業は難航している中、B-24爆撃機の空襲がはじまってしまう。
数日間かけて離礁できない事に上層部は五月雨の放棄を考え始める。
その頃、駆逐艦清霜と共に輸送作戦に従事していた駆逐艦竹に五月雨の救援が下令されていた。
そして運命の8月26日―――
18時30分、米潜水艦バットフィッシュの雷撃が五月雨を襲う。
回避できるわけもなく五月雨の右舷中部に命中―――
大破した船体はそのまま断裂してしまう。
これを受けた司令部は、五月雨の放棄を決断。
艦長以下の乗組員は竹に救助された後にフィリピンへ向かい、セブ島で下艦したという。
必死の作業をしていた乗組員たちは無念だっただろう。
戦うこともできなかった五月雨自身が最も無念だったに違いない。
大海に還った魂に敬礼―――