数々の戦場で旗艦として戦った歴戦の軽巡。
個ではなく隊として現場を支えた名艦。
それが―――
軽巡洋艦「長良」
開戦時に既に旧式艦ながら多くの仲間を救助し、戦線の裏舞台を支えた熟練兵の城の結末を語ろう。
もっと皆と走りたかったなぁ… by長良
軽巡洋艦「長良」
長良は、旧日本海軍の長良型軽巡洋艦の1番艦。
1920年代、帝国海軍拡張期に建造された6隻のうちの1隻。
川内型、球磨型と並び5500トン級軽巡洋艦とも呼ばれる。
太平洋戦争開戦時、既に旧式艦とされながらも数多くの活躍をみせた。
「フィリピン侵攻」で第四急襲艦隊旗艦を務め、この作戦を成功。
「ミッドウェー海戦」では、第十戦隊旗艦として第一航空艦隊に所属し、とんぼ釣り(航空機を脱出した乗員の救助)を行う。
「第二次・第三次ソロモン海戦」でも、第十戦隊旗艦を努め、空母の護衛や夜戦を指揮した。
「第三次ソロモン海戦」の劣勢の中、米軽巡「アトランタ」に損傷を負わせ、米駆逐艦「ブレストン」を撃沈。
まさに戦線の中で、旗艦として着実に戦果を上げていた艦だった。
その最後―――
1943年12月、クェゼリン環礁で第50.3任務部隊の空母艦載機の空襲を受けた。
この時、「長良」は至近弾により搭載魚雷が誘爆、48名が死亡、艦長を含む112名が負傷するという被害を受ける。
開戦よりこれまで、熟練の兵士たちにより支えら大きな損傷もなかった「長良」だったが、この時ばかりはそうもいかず船尾切断という大損傷だった。
―――これが、長良の最期に大きく影響していたのかもしれない。
この後、修理・対空兵装の増備などが行われた。
1944年7月14日から長良は沖縄への呂号輸送作戦に従事。
8月5日に那覇から疎開者をつれて出港。
翌6日には鹿児島に入港、疎開者を上陸させた。
そして運命の8月7日―――
12時を回った頃、米潜水艦「クローカー」は、天草諸島沖航行中の長良を発見。
長良は駆潜艇と対潜哨戒機に護衛され鹿児島より佐世保へ回航する途中だった。
クローカーは静かに艦首を長良から遠ざかる方向へ向ける。
確実に魚雷を命中させられる進路を取ると、長良が進路を変更していない事を確認。
そして―――
4本の魚雷が後部発射管から発射された。
長良はそれを回避するかのように左右へ転舵航行を開始する。
多くの戦場で旗艦を務めただけあり、対応は素早かった。
だが、全ての魚雷を把握できていたわけではなかったようだ。
クローカーも監視は続けていたものの外したと想定して、次の行動の準備に移ろうとしていた。
しかし、細かく回避しながら進む長良だったが―――その2分後。
1本の魚雷の射線と重なる進路に入ってしまう。
完全に回避し損ねた魚雷は、長良の右舷後部に命中。
このダメージに老朽化していた船体は耐えられなかった。
大きく船首を上に、長良は後方から傾くように沈み始める。
この様子を、監視し続けていたクローカーは映像として残していた。
潜望鏡越しに見える長良の最期。
クェゼリン環礁での船体へのダメージが無かったら・・・。
当初からの乗組員が万全だったら・・・もしかしたら、運命は変わっていたかも知れない。
長良は、こうして戻ることのない航海へ旅立っていった―――。
中原艦長以下348名が戦死、237名が救助された。
大海に還った魂に敬礼―――