日本海軍の象徴。
終戦まで残った最後の日本軍戦艦。
それが―――
戦艦「長門」
終戦間際、戦う事を許されなかった悲劇のビッグ7の結末を語ろう。
戦いの中で沈むのだ…あの光ではなく…本望だな… by 長門
戦艦「長門」
長門は、旧日本海軍の長門型戦艦の1番艦。
第二次世界大戦前は、日本海軍の象徴として広く親しまれていた。
1944年11月まで、長門は外洋での作戦に参加していたが、マニラ空襲の後、11月15日附で長門は第三艦隊に編入され16日には「大和」「金剛」と第二水雷戦隊の軽巡洋艦矢矧と同戦隊所属第17駆逐隊(浦風、浜風、雪風、磯風)、駆逐艦桐、梅はブルネイより日本への帰路に付いた。
この航行が長門にとって日本海軍で最後の外洋航行となってしまう。
その後、修理や整備は実施されたものの、燃料・物資不足により外洋に出る事はなかった。
大和が坊ノ岬沖海戦で轟沈すると、残存大型艦は燃料不足の為に運用不能となり、予備艦に指定せざるを得ない状況に。
7月18日、長門は横須賀空襲において空母エセックス、ランドルフ、シャングリラ、ベロー・ウッドの搭載機から攻撃を受け爆弾3発が命中。
艦橋が破壊されてしまうが、そのまま修復されることなく終戦を迎えた。
その最後―――
1944年8月――終戦を迎えた瞬間、長門は唯一残っていた日本の戦艦だった。
最期の最期に戦う事を許されなかったビッグ7は、アメリカへ引き渡されていった。
しかし、長門には最期の戦いが待ち受けていた。
その相手は、日本を2度焼いた兵器―――
「原子爆弾」
1946年7月1日、太平洋のビキニ岩礁で、最初の爆発実験が実施された。
長門は爆心予定地から1000メートルの地点に配置され、広島型原爆と同等の原子爆弾がB-29から投下された。
海面数百フィートの上空で爆発、瞬間爆発点は摂氏100万度の信じられない超高熱、直径30メートル程・摂氏30万度の火球が周囲を吹き飛ばした。
想像できない数値だと思うので参考までに、1500度程で鉄が熔解するというと何となく凄さがわかるかもしれない。
この時、長門と同地点に配置されていた軽巡酒匂は船体全てが炎上して沈没していった。
次に発生した衝撃波により、多くの標的艦がなぎ倒されて海中に消えた。
だが、戦艦である長門は衝撃波と高熱に耐え抜き、洋上に姿を見せている事が確認される。
そして―――
同年7月25日、二度目の実験は水中での爆発実験となる。
この際、長門には他の艦とは違い船体に機雷が設置されていた。
明らかに長門を沈めようとする措置。
そこまでしても日本海軍の象徴であった艦を葬ろうとしていたのだろう。
更に長門の配置された位置は爆心地200メートル地点、ほぼ中心地だった。
二度目の実験開始。
水中で爆発した原子爆弾のエネルギーは巨大な水柱となり周囲の標的艦群を飲み込んでいく。
長門と同様の地点に配置されていた他の戦艦アーカンソーやネヴァダは瞬時に轟沈された。
空母サラトガは大きく傾きながらも、長門同様に船体を洋上に残した。
7時間後、サラトガが沈みゆくのを長門は海上で見守る事となる。
かつて敵として戦ったライバル艦たちが沈みゆくなか、長門はいつまでも姿を残していた。
それは母国を焼いた原爆に対する対抗意識なのか―――
それとも最後に残った日本国の戦艦として意地なのか―――
次の日も、その次の日も、長門は海上を静かに漂い続けた―――
そして運命の7月30日―――
朝、実験関係者が長門の姿が無い事を確認した。
29日から30日未明にかけて海中に没したものと思われる。
故に長門は、その沈む姿を誰にも目撃されていない。
日本軍最期の軍艦は、―――戦友たちの多く眠る海へ、静かに―――還っていった。
ビキニ岩礁に今も残る暗く深い穴が、核兵器の脅威の証であり、長門の墓標となっている。
大海に還った魂に敬礼―――