世界的に年齢を問わず十数年間愛され続けているポケモン。
そもそものはじまりは一体どのようなものだったのだろうか?
調べてみると、今だから感じられる「ワクワク」が沢山詰まった制作秘話が満載なことに気付く。
大人になってもワクワクさせられるなんて、さすがポケモンだぜ!って感じ。
ポケモンの大元、「ゲームフリーク」って?
現ゲームフリーク代表取締役の田尻智氏が主宰したゲーム系同人誌サークル「ゲームフリーク」がポケモンの大元。
まだゲーム専門誌などが存在しなかった1983年、田尻がひとりで作ったゲーム攻略ミニコミ誌「ゲームフリーク」が口コミで大ヒット!
ホッチキスで留められた製本されていない、いわゆる「コピー本」。
内容としてはゲームに関する評論、タイトー社TVゲーム目録、ゲームのバグ紹介など、かなり細かに手書きで書かれていたそう。
「ゲームフリーク」で知り合い、同人誌製作メンバーが集結。秋葉原で部品を調達し、開発機材からROMまで全て自作によるFCソフト『クインティ』を5年かけて開発。ナムコに持ち込んで発売にこぎ着ける。
これが20万本のヒット作となり、手に入れた印税で設立されたのが現在のゲームフリークである。
ポケモンをめっちゃ掘り下げる
田尻智氏の昆虫収集がポケモンのアイデアに!
東京都世田谷区に生まれ、少年時代を町田市で過ごす。当時はまだ自然が残っていた町田市で、野山や小川、時には防空壕跡、時には廃墟にまで足を伸ばし、昆虫をはじめとした生き物の観察や採取を楽しみ図鑑から知識を得ることだけに留まらず、収集や飼育に独自の工夫を凝らしてクラスで一番の「昆虫博士」だった経験が『ポケットモンスター』を作る上で大きな力となったと後に語っている。最も好きなポケモンだと語るニョロモ・ニョロゾは、オタマジャクシがモチーフである。彼の「遊び場」においては身近な存在であったことが伺われる。
田尻智氏の子供時代の経験を元に作られたポケモンは、かつて自身が熱中した昆虫の収集、育成といった遊びから来ていた。
冒険心あふれる、活発で好奇心旺盛な少年時代を送っていた事が伺える。
凄いのはその遊びを現代の子供たちが遊べるように一手間加え、広めてしまった事だ…。
好きだったことはいつになってもエネルギーになりうるのね、これ大学とかで課題にしたらいいと思うわ。
ブラっとやってきて原案を持ってきたのがはじまり
『MOTHER』の開発などのため、任天堂コピーライターの糸井重里さんがエイプという会社を作り、そこにポケモンの原作者である田尻智さんがブラっとやってきて、「カプセルモンスター」というRPGの企画書のようなものを持ってきたのがはじまり。
最初のアイデア書きというのが、「自分が持っているアイテムやキャラクターを交換する」というものだったそう。
後に任天堂の川口孝司さんが会社に企画を持ち帰り、任天堂が開発費を出すことになった。
開発に6年の月日を捧げていたポケモン
1990年から開発に着手。当初は1995年秋~年末発売予定であったが、デバッグなどが遅れ1996年2月27日に繰り下げ発売。
ポケットモンスターは、製作陣のRPGの開発経験が不足していたことやゲームで最も重要な要素である「交換する」ということへの動機付けを見つけられず、開発には長い年月を要した。その間不足した資金を補うため他のゲームを開発するなどの理由で、ポケモンの開発はしばしば中断された。
最初の1年半くらいは田尻くんが試作などを持ってきていたんですが、そのうちパッタリととだえてしまった。当時、田尻くんもすでにゲームフリークという会社を経営していましたから、ほかの仕事もしなければならなかったんです。そこで、「しばらく制作を延期させてほしい」という申し出があったんですね。確か、保留になっていた期間が3年くらいあったと思います。
そのあと、開発が再開されたのは、ポケモンの制作プロデューサーである石原さんのおかげだと思います。石原さんは当時、色々なカードゲームに凝ってまして、確か「この要素をうまくポケモンに活かせばおもしろいものができる気がする」と言っていた気がします。そこで、最終的にプロデューサーとしてのアイデアが盛り込まれて現在の形のポケモンが仕上がったんだと思います。
保留期間やバグ修正に膨大な月日を要していた模様。
そしてその過程で、沢山の人が自由に「面白そう」なアイデアを盛り込んでいって形成されていったみたい。
ビートルズみたいなゲームだな、ポケモンは。
遊び心で入れられた幻のポケモン「ミュウ」
ミュウは最後の最後で入れたんです。
そもそもカートリッジの中はパンパンで
何も入らないような状態だったんですけど、
製品版には入らないデバッグのためのプログラムを抜いたので、
そこに300バイトのわずかな隙間ができたんです。
ここにミュウが入るんじゃないかと。
もう、いまでは考えられないようなことをやってしまいました。
赤、緑のプログラマーだった森本茂樹さんは最後の最後でミュウのデータを投入。
本来、絶対にやってはならぬことではあるがそれが功をなしてヒットへと導くこととなる…。
その後、1996年4月発売の「コロコロコミック」で幻のポケモン「ミュウ」のプレゼント告知をしたところ、20名の当選者に対し、約7万8000通もの応募があったとの事…。
遊び心って無限大だと思いませんか、おれは感動したわ。
メディアへの露出、アニメ化、そして伝説へ…
コロコロコミックなど、メディアへの露出が功を成し、ポケモンは大ヒット。
ゲームからアニメ化にこぎつける事となる。
アニメ化は、任天堂社内でも賛否両論だったんですが、私たちは「やるべきじゃないか」と。その結果、キャラクターグッズができ、アメリカやアジアでも放映された。ポケモンがいよいよメジャーになったんですね。
アニメがはじまると、今度はいろいろなところからどんどん「キャラクター商品を発売させてほしい」という申し出が殺到したんです。初期にポケモングッズのライセンスをとった小さな会社の中には、5年ぶんの売上を半年で達成したところもあったそうです。
5年ぶんの売上を半年で達成って相当ですよ…。
当時の子供達は血眼になってプレイして、アニメを見ていたはずだ。
そんなゲームへの情熱から始まっているといっても過言ではないポケモン。
いまだに世界的に愛されているのは、ユーザーよりもまず「制作側がポケモンを愛している」からだと思うなぁ。