家庭用ゲーム機の代名詞とまで言われた名作ハード「ファミリーコンピュータ」。
通称「ファミコン」
任天堂のゲームハードの中でも屈指のヒット作で、全世界で売れに売れまくったというのは、世代ではない人たちでも知っているだろう。
だが、それ以前にも任天堂はゲームハードを作成していたのを知っているだろうか?
今回は、ゲーム黎明期のハード戦争に挑んだ任天堂の過去の家庭用ゲームマシンを特集していこう!
目次
任天堂初の家庭用ゲーム機
カラーテレビゲーム15
977年、花札で有名だった任天堂が初めて家庭用ゲーム機に参戦した。
カラーテレビゲーム15は、元々電卓を制作していたメーカー「システック」が「三菱電機」と共同開発していたもの。
システック倒産後に三菱電機が任天堂に企画を持ち込み、改良されて発売された経緯を持つ。
つまり、任天堂の自社制作の商品ではなかったのだ。
遊べるゲームは、PONG系のテレビテニスゲーム。
ゲームスイッチで15種類のバリエーションが遊べるというシステムで、当時のTVゲームとしてはスタンダードなタイプ。
事前には、エポック社のテレビテニス(1975年発売)が日本初の国内向けゲーム機として発売されており後発という事になる。
廉価版にカラーテレビゲーム6があり、ゲームとしては同じもの。
15の方は、コントローラーが本体から取り外し可能なコトと、スイッチによるバリエーションの豊富さで人気があったようだ。
実に100万台を売り上げたとされ、TVゲーム黎明期としては大ヒット商品である。
当時のハードは、ゲームは本体に内蔵されたものしか遊べない為、スイッチ切り替えによるバリエーションは重要だった。
この後、任天堂はファミコンが発売される1983年までの間にいくつものゲーム機を世に送り出していく。
112ものゲームが遊べる!?
レーシング112
1978年に発売されたレースゲーム専用マシン。
トップビューのレーシングゲームで、大型のハンドルと2速のシフトレバーで操作する。
112種類ものゲームが遊べる!―――のではなく、例によってただのバリエーションだった。
ゲームの内容的には、カーブなどはなく邪魔な敵車を避けて進んでいくというもの。
2人プレイでは、中央で分割されて狭い道になる。
ちなみに、バリエーションの中には分割画面の左側だけをつかった1人用の狭い道モードなんてのもw
このころになると、こういったバリエーションゲームも飽きられてきていて、セールス的にも16万台とカラーテレビゲーム15に比べると惨敗といっていい結果だったようだ。
それでもかなりのセールスだったと思うが・・・
任天堂初の自社開発ゲーム機
ブロック崩し
1979年に発売された任天堂が初めて自社で開発したゲーム機。
当時アーケードゲームで人気だったブロック崩しを研究し、ブラッシュアップされた名作とも言うべき作品。
ボールがブロックを貫通する爽快な『ブロックスルー』や、フリーボールで楽しめる『ブロックキラー』など、初心者から上級者まで楽しめるバリエーションが6種類遊べた。
通常は本体をテーブルに置いて操作するのだが、片腕にバイオリンのように乗せて操作する方法もある。
開発に時間がかかってしまい、発売時期が遅れたという事情もあり、販売台数は40万台前後だったという。
これぞ黒歴史!?任天堂で最も売れなかったマシン
コンピュータTVゲーム
1980年に任天堂がアーケード用ゲーム「コンピューターオセロゲーム」を家庭用に移植した製品。
というか、中身はアーケードの基板をそのまま流用しただけのもの。
専用ACアダプタは重量2kgもある凶器。
しかも内容も電子オセロゲーム1種類のみで価格も48,000円という信じられない価格だった。
任天堂の他のゲーム機の倍以上の価格設定とあり売り上げは記録的な惨敗におわったという。
この為、流通量がハンパなく少ない『幻のテレビゲーム』という異名がつけられた。
不名誉な異名だよなw
まさに黒歴史!
この後、1981年になるとエポック社より発売となるカセットビジョンが大ヒットとなる。
その時には、まだ爆発的なゲーム人気とまでにはならないが、このカセットによるゲームの切り替えを可能としたシステムが後のファミコンへとつながっていく。
ファミコン以前の任天堂は、様々な試行錯誤を繰り返し、黒歴史を乗り越えて稀代の名機を完成させたという事がわかってもらえただろうか?
実は、1980年には、任天堂がファミコン以前にゲームブームを作ったもう一つの名作たち―――
『ゲーム&ウォッチ』の存在があった。
だが、それはまた別のお話し。
今回はここまでといておこう。
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